二代目宗家 祝嶺正献 コンピュータによる情報交換システムを利用することが日常的な世の中になり、デジタル化したネットワークで世界が繋がれて行くにつれ、情報の均一化は地球規模で進む傾向がこの先も更に続いて行くことでしょう。情報化社会の成熟と共に、地理的な境界線を除いては、国民性の枠組みすらも徐々に薄らいで行く観は否めません。が、と同時に、このような時代の流れに即した21世紀における武道家の在り方を改めて考えさせられる機会を与えられているのではないでしょうか。
この度、国際的に広がる躰道家の輪の中で、国の枠を越えた協力体制のもと、躰道タイムズの復刻が新たに企画される運びとなりました。躰道を学ぶ一個人において、また、全体的な躰道システムの中においての均衡(バランス)とは何であるかを考える上で単純なきっかけとなればと、創刊号によせるご挨拶として『躰道的均衡』という題を選びました。
コントロール 人間のとる行為行動を内的な衝動という観点から見てゆくと、そこには常に、行動への支配力(コントロール)というものが関わってきます。外的な力により取らざるを得ない行動と、自分の意に沿った行動とでは、どちらがより望ましいかということです。精神的な強さを求めるものから、鍛え上げられた肉体美を追求するものまで、武道を学ぼうという個人の動機はさまざまですが、いずれにせよ、自分の選択によって研鑽を重ねるということは、主体の意志にそった行動であり、その過程には自ずと充足感が伴い、より期待に沿った効果が得られるというものです。他のスポーツと同様に、武道においても身体的な能力の向上が目標として掲げられますが、それにもまして、自己の内面に生じる様々な衝動やストレスを対処して行く能力を高めることが武道的価値観であると言えるでしょう。
一方、形はどうあれ、また、それが外的なもの、内的なものであるにせよ、自己にとって不快な他者(対象)が存在するとします。人間のみならず、生き物であれば、当然、無意識のうちにその状況(他者の存在)が自身に危険を及ぼすかどうかの感覚を抱いているものです。その中で、ひたすら状況の変化を待つことにするのか、対象を受け入れるのか、はたまた逃げてしまうのかの選択をすることになるでしょう。例えば、状況が身の危険に直結するとの感覚を得ながらも、相手と向き合うことを選択したとします。(多くの読者はこの選択肢を選ぶことになると思いますが・・)その時、既に、もっとも効果的に対象(課題)を解決する(眼前からクリアする)方法を模索していのではないでしょうか。アングルは単に角度という意味にとどまらず、「視点」や「ものの見方」、と捉えられれば、内的に生ずる不快な対象についても同じ対処法が適用できると言えます。状況判断から最終的に対象が目の前から失せるまで、自分の意志に沿った試行錯誤を繰り返し、躊躇なくやりとりを展開することができれば、意志を行動に表したという点において、ある種の成果が得られます。更にその結果が自分の期待通りであれば、ストレスによる影響は軽減されることになり、次の機会に備える有益な経験となるでしょう。
バランス カタカナで言うバランスでありますが、英訳をすると日本語の天秤ばかりにもあたることがわかります。ご承知の通り、支点をもとに一方に置かれる質量的な価値をもう一方と釣り合わせるというメカニズムです。このバランスはまた、司法の公正さを表す伝統的なシンボルとしても使われており、興味深いところであると思います。躰道は武道として体の処理法を修得しながら効果的に相手を制する方法を学んで行きますが、一方で、自己と相対する他者との調和についても言及して行きます。そこには、一見対照的である、相反する命題をあえて包括し、これまでの武道の範疇を超えた領域において均衡をとろうという性質を示すものです。
「躰道はこうである」という単純な解釈や定義をすることは容易ではありません。創始者である祝嶺正献が、常に、その時代における社会的背景の中で躰道の有意性を実証し続けたわけですが、創作された新技の必然性をより説得力のあるものに成熟させる為に、形而上学的なものの見方を投げかけているのです。実技と理念とバランスこそが人々を魅了した価値であるとも言えるのではないでしょうか。実技の創作は単なる閃きであったかもしれません。ですが、その有効性が認められれば認められるほど、現実との関連性を見出すことによって、人間社会における矛盾そのものの存在を包括した上での理念を創造し続けているともいえます。そこには、人間の体と心、主体と客体、理念と感情、有と無、善と悪、論理と比喩、混沌と秩序、などなど、物事の二面性を対比させることによってひとつの方向性を追求しているのです。形而上学では、広大な宇宙における人間の存在や実在する様々な現象の根本的な性質、そして、そもそも森羅万象が我々人間の意識下に存在するものなのか、というような事を問いかけています。
物理学の世界で取り扱われる事象はエネルギーや空間、時間といった概念を取り扱い、「リンゴはどのように落ちるのか?」のような疑問への説明はつきますが、「何故リンゴが存在するのか?」といった疑問への対応が、形而上学の性質と言えるでしょう。技術的な運身、運足への説明は物理学的、運動力学的に説明がつくことがあっても、躰道自体が存在する意味の探求においては、その範疇を超えた視点が不可欠となります。
中心点を見出す 一般大衆の前で躰道が披露された当時、それまでの格闘技とは比にならない斬新さと技の優美さを放ち、間もなく武道そのものの概念にすら影響を与えました。競技上のルールや判定の基準がわかれば尚のことその奥深さに感心しますが、そうでなくとも、一芸に秀でた熟練者の演技に観衆が無条件に惹きつけられるのと同様に、芸術として鑑賞する価値がありました。
創始者の著書は『躰道概論』と名づけられ、半生をかけて創り上げた自分の『道』が単なる序論にしか過ぎないという認識を公にしました。当初武道である躰道が取り扱うべき範疇ではないと思われていたことが、何十年もの成長の過程において付け加えられてきたように、この先も多様な観点が加わって行くことと思われます。
日本で生まれた躰道を世界が共有するということは、すなわち、そこに関わる多くの個人の経験や価値観を分かち合うということになります。言うまでもありませんが、躰道タイムズにはさまざまな専門分野、また、異文化から広く賛同者をお迎えし、客観的な躰道への評価を得ることが出来ればと期待します。
躰道の性質上、その関係者が増え、多様な視点を吸収すればするほど、躰道自体の質的向上が見込まれ、定義が形作られ、新たな価値観を創出することができます。というよりも、むしろ、躰道的均衡に不可欠な中心力の所在を模索する手がかりになるのではないかと思うのです。そしてこの過程が繰り返されるごとに、躰道は創造進化を遂げて行くのです。 |